Category: イスラエルの歴史

現代ヘブライ語の父の誕生日

 

אליעזר בן-יהודה

今日1月7日(正確にはユダヤ暦におけるテベットの月の21日目)は、

私が尊敬してやまないエリエゼル・ベン・イェフダーの誕生した日です。 

ベン・イェフダーは、今から約100年ほど前、まだイスラエル国が建国されるずっと前から、

長い間書物にだけしか使われていなかったヘブライ語を話し言葉として現代に復活させた先駆者、

まさに現代ヘブライ語の父なのです。

 

きっとピーンと来ない人も多いかもしれませんが、

今から数十年前はまったくといっていいほど使われていなかった言語が、

今ではイスラエルの母国語として何百万人の人が日常会話で使っているのです。

そして今日になって、もう一度彼の功績を見直し称えること、

そして彼が必死の思いで復活させた現代ヘブライ語を守り強化するため、

先日イスラエル政府により彼が誕生した日を「国のヘブライ語の日」と定めました。

 

ベンーイェフダーは今から二千年以上前に使われていたヘブライ語を調べ直し、もう一度現代に使えるようにしました。

そして現代において不足している単語には、姉妹言語を調べ語源をたどり、そこから新しい単語を生み出しました。

ただ彼はヘブライ語が好きだから、言語が好きだからヘブライ語の研究に狂ったのではありません。

ユダヤ人が独自の国家を建設するにあたり、まずはユダヤ人の共通の言語だと必要だと思い、

イスラエル建国のために全生涯をかけてヘブライ語を復活させることを誓います。

 

ヘブライ語の新聞を発行しては、そこにヘブライ語で国家建設の重要性を訴えてました。

また晩年はヘブライ語辞書の編纂に全ての時間を費やし、寝る間を惜しんで辞書製作に励みました。

1922年冬、ベン・イェフダーは志半ば、辞書の編纂を終えることをなくこの世を去ってしまいますが、

彼が残した資料は莫大なものであり、その遺志をついだ家族やヘブライ言語学者たちがその後も編纂作業にあたり、

全17巻からなる「ベン・イェフダー辞典(ヘブライ語大辞典)」を完成させました。

מילון בן-יהודה

 

私が本気でヘブライ語を勉強しようと思ったのは、ベン・イェフダーの生涯を描いた伝記を読んだときからでした。

そして私もこのような生き方をしたいと願い、この4年間ヘブライ語を勉強することを通して、

自分は何のために学び、どのように生きっていったらいいのかと模索しながら大学で戦ってきました。

 

不可能な夢を可能にするのに、ただ「奇跡」の一言ではおさまりきれない、とてつもない努力と、強い精神力、

そしてなによりもそれを実現にいたらすのはその人の「熱願と熱情」が一番大事だと気づかされています。

 

「היום קצר והמלאכה מרובה」時は短く、なすべきことはあまりにも多い

 

2010年もベン・イェフダーの如く、一日一生の思いで精一杯生きていきたいと思います。

ご来光を仰ぎながら

みなさん、2010年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

こちらイスラエルは全くと言っていいほどお正月の雰囲気がありません。

ユダヤ教にはまた別の暦がありますので、西暦を基準とした新年はまったくといっていいほど祝いません。

だから昨日も今日もいたって平日、なんとも味気ないものです。

 

今年も例年と同様、初日の出を仰ぎにいくため、ヘブライ大学に出向かいました。

あいにくの天気のため、視界は悪く、太陽がいつ上ったのかわからないくらいでしたが、

やはり新しい年を迎えるにあたって、初日の出に見に行くと心も新たな思いにさせられます。

ふと手に持っていた聖書開いて読んでみると、不思議な発見がありました。

 
第二年の正月になって、その月の元日に幕屋は建った。
すなわちモーセは幕屋を建て、その座をすえ、
その枠を立て、その横木をさし込み、その柱を立て、
幕屋の上に天幕をひろげ、その上に天幕のおおいをかけた。
主がモーセに命じられたとおりである。(出エジプト40章17~19節)

 

会見の幕屋とは、今から約3400年前に古代エジプト王国の奴隷として苦しい生活を送っていたイスラエルの民が、

神に召命された民族指導者モーセに率いられて、出エジプトした故事に関わってきます。

出エジプトしたイスラエルの民に対して神様は、荒野の中に神と民が出会う至聖所「会見の幕屋」を作るように指示します。

出エジプトしたニサンの月を正月と定めましたが、それから一年後の元日に幕屋は初めて完成しました。

つまり簡単に言えば、元日に幕屋は建てられたのです。

 
モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。
雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。
彼らはその旅路において常にそうした。
しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。
すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、
昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。
彼らの旅路において常にそうであった。(出エジプト40章35~38節)

 

幕屋が進んでいくときにはつねに雲が覆っていた。ただの雲でない、主の雲が覆っていたといいます。

今年の初日の出は雲に覆われ何も見えませんでしたが、

幕屋が建てられてた元日にこのように雲が全イスラエルを覆っていることに感動。

この一年はきっとイスラエルにとってもまた自分にとっても激動の一年にになるかもしれない、

だけど主の雲に覆われながら示される道を歩んで生きたい!

そのように思わされた一年の始まりでした。

会見の幕屋

ユダの荒野

あ、私事で、しかも事後報告なんですが、昨日付けで23歳になりましたCarmelです。
イスラエルで迎える4度目の誕生日、皆から多くの祝福を受けて感謝の限りでございます。

言葉にするのはあまり得意じゃないから、どんどん写真を掲載していこうと思いながらも、それすら面倒がって進んでない状況ですが、年齢の区切りを迎えた今、新しい一年が一層の飛躍と変貌の年となりますよう願います。

昨日はユダの荒野と呼ばれるイスラエル東部、死海周辺の地域を旅して参りました。

エイン・ゲディ、ダビデの滝

エイン・ゲディ、ダビデの滝

マッサダ(要塞)、奥に見えるのが死海

マッサダ(要塞)、奥に見えるのが死海

天然の要害として建てられ、ユダヤ戦争においては苦しい防衛戦の末にユダヤ人の集団自決を選びとったマッサダ(要塞)。

世界で最も低い標高(現時点で海抜マイナス418メートル)に位置する塩湖で、いかなる生物も生息できないと言われるほどの塩分濃度(約30%)である死海。

ダビデがイスラエルの王になる前の頃、サウル王に追われ、多くの従者と共にその身を隠した物語で語り継がれる、4つの泉を持つ荒野のオアシス、エイン・ゲディ。

どれも古来からユダヤの精神において重要な役割を担ってきた場所場所です。

何もかもが豊かに満ち足りて恵まれることばかりが祝福ではありません。 時には人生の砂漠の様な場所を通ったとしても、もっと大いなる存在に触れることを渇望し、また不思議な生命力で溢れる様な事だってあります。

人は砂漠の様な不毛な大地に立った時、決して一人では生きていけませんし、その目は自然に天へと注がれます。 物質的に不自由の少ない生活ができる現代のようであっても、次代を開く鍵はもっと目に見えない所に隠されているように感じます。 自分自身、工学を志す身ながら、荒野で何においても不足しがちな生活の中に身を置く人々に触れ、共に生活を体験した時、彼らの内にある不思議な闘魂、開拓者精神という物を熱く感じ取りました。

物作りは、確かに人の生活を便利にし、また不足を補うためにありますが、それ以上に人の心を豊かにしていけるような技術者になりたい、そういう風に今願いが湧いてます。

ハイファの夜景

はじめまして、Carmelと申します。
Blogの管理等を任されていますが、もっと皆で活動を盛り上げていきたいということで、私も初投稿させて頂きます。

私はハイファという町に住みながら、この町の大学で学んでいる者ですので、
何度かに分けて簡単に町や土地柄などを紹介していこうと考えています。

地中海沿岸(ハイファ市バット・ガリーム地区より)

地中海沿岸(ハイファ市バット・ガリーム地区より)

ハイファー(حَيْفَا)とはアラビア語でして、ヘブライ語ではヘイファー(חֵיפָה)と読み、海岸を意味する言葉から派生した町の名前だと言われています。
紀元前3世紀頃から、 ユダヤ教の伝統的な書物の中に何度も登場するようになりますが、その後の他国による支配の変遷によってこの町も何度もその姿を変えていきます。

地中海とカルメル山という聖書の大舞台に座する町で、ここにも多くの巡礼者が訪れます。町並みの大部分はオスマン帝国の支配時に由来するものが多いですが、山上の町であり港町でもあるハイファは昔から文化的に重要視されてきました。

現代では、エルサレムは宗教・政治的な中心地、テル・アビブは経済的な中心地という風に言われるのに対し、ハイファは産業の中心地と言われたりもします。今では貿易は専ら国際空港を持つテル・アビブの方が栄えていますが、ハイファでは多くの工場が立ち並び、IntelやMicrosoft、IBMやGoogleなど世界に名を馳せる企業の開発所があります。

色々な民族、宗教の人たちが仲良く共存できる平和な地域でもあり、ペルシャ発祥の世界宗教バハイ教もハイファに本部を構えていることで有名です。バハイ教の巨大な寺院・庭園があり、町のシンボルのようにも思われます。

…(別の記事で紹介は続きます)

先日、ウルパン(ヘブライ語教室)で学びを終える友の帰国が近いので、短い時間でしたがハイファは散策、最後にハイファの夜景を展望しました。カルメル山中腹(標高200mくらい、多分)にある展望台から、漢のロマン、地中海方面の町並みを展望しました。

ハイファの夜景(カルメル・センターの展望台より)

ハイファの夜景(カルメル・センターの展望台より)

人工的な美しさとはいえ、この二千年来の血なまぐさい歴史をすべて見届けてきた地中海とカルメル山に、この地を生きた偉人たちに肖って生きようとする人々が彩る光なのであれば、これもまた聖地が持つ輝きの一つなのではないでしょうか?

…あと、逆に湾岸側から見上げる山上の夜景ももっと凄いです。夜景を見上げるなんて、日本では少ない光景です。ハイファいいとこ一度はおいで♪

非合法移民

 

久しぶりに旅行にでました。

行った先はイスラエル北部にあるハイファと地中海沿いにあるカイサリア。

そのなかでも一番感動した場所はここ「海軍・非合法移民博物館」

ここはイスラエル国防軍海軍博物館でもありますが、それだけではありませんでした。

博物館

 

イスラエルがまだ建国される前の話。

1933年、ドイツではヒトラー内閣が発足、その影響もあり反ユダヤ主義は強まっていった。

もう今まで通りには生活できなくなったユダヤ人は、父祖の地であるイスラエルの地を目指して帰還運動を促進していく。

しかし当時パレスチナの地を握っていたイギリスは、ユダヤ人の願望には答えることができず、彼らの入国を拒否した。

しかしもう戻るところもないユダヤ人は、船に乗り込み非合法の形で命を懸けてイスラエルの地を目指すことを決意した。

 

1934年から1948年までの間に、非合法移民としてやってきた数は144隻、12万人にもなるという。

もちろんなかには、強制的に船をヨーロッパに帰されたり、攻撃を受けた船もあった。

ときには、1隻に4500人が乗っていた船もあった。

exodus

寝る場所も座る場所もまったく無い。しかし、イスラエルの地に着くためならどんな危険も困難も恐れることは無かった。

”我らの目的はただ一つ、我々の父祖の地、このユダヤ人の地に帰ることだけだ!

どんな方法でもかまわない、そこに道は必ずある。落胆するな!前進あるのみ!!”

映像から流れれてくる移民者の叫びが印象的であった。

そしてやっとの思いでイスラエルの地にたどり着いた船は、その後戦いようの軍船として使われていった。

それがイスラエル海軍の始まりにもなったのである。

 

今に至るまで存在している非合法移民船は立った一隻しか残っていない。

しかしその一隻がこのすさまじい歴史を今も語り続けている気がした。

非合法移民船

どんな手段でもかまわない、たとえぼろぼろになっても、夢・目的を達成するまでは絶対に屈っしない!

今日も不撓不屈のユダヤ魂を学んだ思いがしました。

 

 

そして最後は、地中海を眺めながら一日の旅行を終えました。

それにしても暑かった~この海に飛び込みたかったです!!もう夏だなぁ~

地中海

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